石屋のないしょ話 vol.100

地方から東京に向かう意味で「上京」という言葉が使われますが、同じように京都に向かうときに使われるのが「上洛」です。 しかし、なぜ京都に行くことに「洛」という文字が使われるのでしょうか? 今月は、その理由についてお話します。 
その謎を解くためには、平安京の造営まで遡る必要があります。 平安京は南北五・二キロ、東西四・七キロの壮大な計画都市で、中国の都城制に倣ったものでした。 二つの「京」よりなり、南北に貫く幅八五メートルの朱雀大路を中心軸にして、東側に左京、西側に右京が作られました。 その町並みは唐の長安と洛陽をモデルとしました。 当時、唐の首都・長安は東洋と西洋文化が混合し、一○○万の人口を誇る大都市であり、洛陽は副都でしたが、長安に劣らない華やかな都でした。 この大都市長安・洛陽を真似て平安京を作ったとき、左右両京にニックネームがつけられました。 左京を「洛陽城」、右京を「長安城」と称したのです。
平安京は前途洋々のスタートを切ったものの、平安時代も中期となると、しだいに平安京そのものの解体が始まりました。 とくに右京の衰退は甚だしかったのです。 右京は地形的に低地で沼や湿地が多く、住居地には適していませんでした。 そのため、平安京建設当初から開発にかなり手間取り、早くから住宅や道路が荒廃し農村化していったのです。 それに比べて左京は発展を遂げ、二条以北は高官の貴族達の邸宅が建ち並びました。 このことは、長安をモデルにした都の衰退と、洛陽を模範にした都の繁栄を意味し、京都の別称は洛陽とも言われるようになったのです。
そのため、平安京は「洛都」「京洛」などと言われ、「洛」は「京中」を意味する言葉として定着したのです。 そして、後に将軍が京都に上ることを「上洛」または「入洛」と言うようになったのです。 こうして平安京は、東側の左京中心の細長い都市型に繁栄していったのです。 室町時代になると、応仁の乱により京都そのものが荒廃し、再び繁栄を取り戻すまでには織田信長の上洛を待たねばなりませんでした。
石屋のないしょ話でした・・・。