石屋のないしょ話 vol.110

朝晩めっきり冷え込んできました。 皆さん急激な温度差に風邪などひかれてませんか? 今月は、一年中多くの観光客が訪れる三十三間堂の東向かいにある、養源院というお寺についてお話します。
養源院は、一五九四(文禄三)年に、豊臣秀吉の側室淀君が父の浅井長政の菩提を弔うために秀吉に願って建立されました。 一六一九(元和五)年に一度焼失していますが、二年後、淀君の妹で徳川秀忠の妻の崇源院(今、大河ドラマで主人公の江)が秀忠に懇願し、京都桃山の伏見城の遺構を移して再建しました。 そんなお寺に、なんと人の血痕が手形や体の形のまま残っている「血天井」があります。 天井に不気味な血痕がはっきりと残り、見た人は思わず背筋を凍らせるでしょう。 いったいなぜお寺に血天井があるのでしょうか?
この血天井は、伏見城攻防戦で徳川家康の家臣である鳥居元忠以下一◯◯◯名余の武士たちが、石田三成軍に攻められて敗れ、最後に自刃した廊下の板敷きを天井にしたものなのです。 豊臣秀吉は五大老と五奉行を任命し、我が子秀頼の将来を託しましたが、秀吉亡き後、武闘派と文治派が対立しだしました。  そこで天下を狙う徳川家康は、伏見城で五大老を無視して独断で政権を執り始めました。 石田三成ら文治派はこの態度に怒り、一触即発の緊張状態となりました。 家康は戦を起こして一気に天下を取りたいのですが、それには大義名分が必要でした。 そこで家康はあえて伏見城を留守にし、上杉討伐に会津へ向かうことにしたのです。 伏見城を留守にすれば、その間に石田三成が必ずや伏見城を取り返そうと攻撃してくると睨んだのです。 伏見城の留守を預かるのは家康側近の鳥居元忠以下一◯◯◯名の武士たちです。 彼らは戦の口実を作るための囮となったのです。 元忠も覚悟の上であり、会津に向かう家康と最後の別れを惜しみ、涙を流したと伝えられています。 一六◯◯(慶長五)年、家康が会津に向かうと、予想通り三成軍が猛攻撃を仕掛けてきました。 捨て身の元忠らは必死で奮戦しますが、一二日間の戦の末、元忠軍は敗れました。 元忠も自刃し果てたのです。
彼らの遺骸は葬られずに一ヶ月あまりも放置され、そのため死体の跡や血痕が廊下の板に生々しく染み付きました。 崇源院は、養源院の再建にあたり、この血痕が残る廊下の板を貰い受け、討ち死にした武士たちを弔う意味で天井板にはめ込んで残したのです。 現在も養源院には多くの観光客が血天井を見に訪れます。 手形・胴体・引っかき傷など生々しい痕が浮かび上がる天井からは、討ち死にした兵士たちの呻き声が聞こえてくるような気がしませんか?
石屋のないしょ話でした・・・。