石屋のないしょ話 vol.122

一年中多くの観光客が訪れる、京都を代表する名刹・清水寺は、東山三十六峰のひとつ音羽山の中腹に広大な寺域を持っています。 その清水寺の境内に、なぜか古代東北・蝦夷の主将アテルイと、副将モレの慰霊碑がひっそりと建っています。 皆さんはご存知でしたか? 今月は清水寺と蝦夷にどんな関係があったのかについてお話します。 

アテルイは、平安時代はじめ、東北地方を本拠とした蝦夷の主将です。 七八九(延暦八)年、東北に侵攻した朝廷の大軍をわずかな兵力で撃退した東北の英雄です。 続く坂上田村麻呂との戦いでは、敗れて副将のモレと共に投降しました。 十三年にもわたる戦いで数万に及ぶ朝廷の大軍を翻弄した主将は、古代ではアテルイしかいないと評されています。 坂上田村麻呂はアテルイの武勇を認めて朝廷に恩赦を願い出ますが許されず、アテルイ・モレは河内国で処刑されました。 処刑地は現在の大阪府枚方市牧野付近と言われ、ここにアテルイの墓と言われる首塚はありますが、他にも墓とされる胴塚があるなど、長い間、蝦夷の英雄の墓所も祀る寺社も定まっていませんでした。 

そのため、岩手県の地元有志が一九九四年に両将の鎮魂のため、清水寺の境内にアテルイとモレの慰霊碑を建て、「北天の雄」と明記したのです。 清水寺は、実は坂上田村麻呂と深い因縁があります。 この寺の開基については、草創をどの時点に置くかで諸説ありますが、寺伝によると奈良時代末の七七八(宝亀九)年、延鎮上人によるといわれています。 延鎮がまだ修行中の身だった頃、夢のお告げで音羽山麓の滝のほとりに草庵を結び、行叡居士に命じられて観音像を彫って祀ったのがはじまりといわれています。 
その後、坂上田村麻呂が妻の安産のため鹿を狩りに来て延鎮に出会い、殺生を戒められて改心し、妻とともに観音に帰依して仏堂を寄進し、ご本尊に十一面千手観音像を安置しました。 坂上田村麻呂と延鎮は協力して本堂を広げて発展に努めました。 これにより、清水寺は延鎮上人を開山、坂上田村麻呂を本願としています。 東北の蝦夷平定に向かった坂上田村麻呂は、この観音に祈願し、観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の加護を得てアテルイに勝つことができたといわれています。 田村麻呂がアテルイを勇敢な将と称えて、その後助命嘆願したのは先に述べた通りです。 このような縁から、遠き蝦夷の主将の慰霊碑が、京都の清水寺に建つことになったのです。
石屋のないしょ話でした・・・。