石屋のないしょ話 vol.129

世界三大美女といえば、皆さんご存知の通りクレオパトラ・楊貴妃・小野小町ですよね。  今月は絶世の美女といわれた小野小町の晩年についてお話します。 
叡山電鉄で鞍馬寺や貴船神社に向かう途中の市原駅の近くに。補陀洛寺ふだらくじがあります。 通称・小町寺。 小野小町が晩年を暮らし、終焉の地となったお寺です。 補陀洛寺とは珍しい名ですが、「補陀洛」とはインドにある観音様が住むと言われている山のことです。 九四五(天慶八)年、天台宗座主・延昌によって創建されました。 小野小町は平安時代の歌人で、仁明天皇の更衣として仕え、天皇の崩御とともに宮仕えをやめて余生を送りました。 言わずと知れた日本を代表する美女です。 「百夜通い」をすれば小町への恋が実ると言われ、小町に恋焦がれた深草少将が、毎夜小町のもとに通うが、九十九夜まで通いながら願いが叶わず死んでしまったという逸話が残っています。 

宮廷で華やかな暮らしを送った小町だったが、晩年は零落して陸奥国まで放浪し、そのためか、全国には青森から九州まであちこちに小町ゆかりの地が伝わります。 代表的なのが、小町の住居があったとされる京都山科の随心院で、ここには小町地蔵・小町化粧井戸などが残されています。 
補陀洛寺には、絶世の美女・小野小町の痩せ衰えた老婆の像が祀られています。 お寺に安置されている老婆像は、あばらの浮き出た哀れな姿で、これがあの小町とは思えないほどです。 補陀洛寺の寺伝によると、小町は晩年、流浪の果てに九○○(昌泰三)年、八十歳でこの地にたどり着いて没したという。 そのときの辞世の句が残されています。


われ死なば 焼くな埋むな野にさらせ やせたる犬の 腹をこやせや


宮仕えまでした歌人らしからぬ句である。 補陀洛寺の住職によると、この歌の通り、小町の遺骸はこの地で野ざらしにされていたそうです。 道端に捨てられていた小町の髑髏の目の穴からススキが生えていて、風が吹いてススキがなびくたびに髑髏から「ああ痛い」と叫び声が聞こえたとか・・・。 後にここに立ち寄った恵心僧都が哀れに思い、ススキを抜いて供養してやると、小町はやっと成仏できたということです。 このお寺には、小町供養塔と深草少将の供養塔が並んで残されています。 晩年、哀れだった小町にとっては、それだけが救いであったにちがいないでしょう。
石屋のないしょ話でした・・・。