石屋のないしょ話 vol.136

室町時代後期に栄えた東山文化を代表する建物が、東山の月待山麓に建つ銀閣寺です。
観光で訪れたことのある方も多いと思います。 今月は銀閣寺についてお話します。 正式名称は「慈照寺」であり、「銀閣」というのは寺院の中のひとつ、観音殿のことです。 室町幕府八代将軍足利義政が「鹿苑寺」(金閣寺)を模して一四八二(文明一四)年から東山山荘、つまり慈照寺の造営をはじめました。 
鹿苑寺を造った足利義満は、義政の祖父に当たります。 祖父が造った鹿苑寺には金箔が貼られ、文字通り金色に輝いていました。 それに倣ったのだから、義政も慈照寺に銀箔を貼ることを考えていても不思議ではありません。 しかし、慈照寺は銀色に輝いていません。 禅宗様式のひっそりとしたたたずまいです。 理由は諸説あります。 銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政が厳しくて中止したという説や、造園中に義政が亡くなったため中止したという説・いやそもそも初めから貼るつもりなどなかったという説などです。 義政は父義教の死、兄義勝の急死にによって、わずか八歳で将軍職に就くことになりましたが、政治の主導権を握れず、次第に政権への興味を失っていきます。 そして将軍職を息子の義尚に譲ってからは、もっぱら邸宅や御所の造営、茶の湯、書画などに夢中になったのです。
当時は応仁の乱がおさまった直後だったため、京都はまだ混乱と疲弊のなかにあり、幕府には邸宅などをつくる経済的余力は全くありませんでした。 それでも義政は庶民に税金や労役を強引に課して東山山荘の造営をはじめたのです。 しかし、義政は観音殿の完成を見ずして一四九○(延徳二)年に中風のため亡くなりました。 それゆえ、義政がはじめから銀箔を貼るつもりだったかどうかはわからないのです。
庭園には、白砂を台形に盛り上げた「向月台」という真っ白な砂山と「銀紗灘」という白砂を敷き詰めた一角があり、ここに月光が反射すると観音殿は銀色に輝くようになっていることから、義政はこの向月台と銀紗灘を使って銀箔を演出したのではないか、とも言われています。 しかし、このような形になったのは江戸時代後期のこととされ、義正の時代にはなかったという説もあることから、銀閣寺に銀箔が貼られていない理由は、やはり謎のままなのです。
石屋のないしょ話でした・・・。