石屋のないしょ話 vol.15

皆さんはお寺にお詣りした際、境内に稲荷神社があるのを不思議に思ったことはありませんか? 今月は、なぜお寺の中に神社があるのかについてお話します。
平安時代の初めに、天台宗の開祖・伝教大師最澄は比叡山を開くにあたって、この土地に古くから鎮座する地主神である「比叡」の神を丁重にまつりました。 最澄が比叡山の開創に先立って、比叡の神をまつったことは、神仏習合(日本固有の神に対する信仰・神道と、仏教の信仰を調和融合したもので、我が国独自の信仰。 仏教伝来から間もない奈良時代に始まり、平安時代の後期以降は日本の寺社信仰の中心になった。 明治の神仏分離で神道と仏教は一応引き離されたが、現在でも根強い人気があり、山岳修業する山伏なども神仏習合の産物である。)の魁となる出来事でした。 
そして平安時代の中頃になると、神社の境内には神宮寺というお寺が建てられ、僧侶が神前でお経を唱え、寺院には神々をまつる神社が建てられるようになりました。 つまり外来の宗教である仏教と日本古来の神道の神が、同じ敷地の中で仲良く暮らすようになったのです。 この不思議な現象を神仏習合といい、時代とともに盛んになっていったのです。 このように神仏が共存する状態は、江戸時代の末まで続いたのです。
しかし明治になって維新政府が神道と国教を定めると「神仏判然令」というものを作り、それまで一緒になっていた神社と寺院を引き離して神道の本拠地である神社の存在を確立させようとしました。 その結果、寺院内の神社や神社内の神宮寺は境内の外に出され、神仏の共存に終止符が打たれたのです。 しかしどうしても神社と寺院を切り離すことができない所もありました。 例えば日光東照宮は二荒山神社・輪王寺とともに二社一寺が渾然一体となっていて、これを完全に切り離すことは不可能でした。 そのため現在でも東照宮の入り口には五重塔が建ち、境内には薬師堂や鐘楼などが残されているのです。  
第二次世界大戦後には神道が国教でなくなり、神仏をともにまつることも各寺院の裁量に任されました。 その結果、かつて神仏判然令で移転させられた神を再び観請(他所にまつられている神仏を招いて新たにまつること。 八幡社や稲荷社はすべて宇佐八幡や伏見稲荷の神霊を分けてもらってまつったもの)したり、さらには稲荷などを新たに観請して社を構える寺院が多くなったのです。
石屋のないしょ話でした・・・。