石屋のないしょ話 vol.153

天気のよい日中は、初夏を感じる新緑の綺麗な季節になってきました。 今月は木屋町通りに沿って流れる「高瀬川」についてお話しします。
実はこの高瀬川、木屋町沿いだけではなく太秦・西院・壬生・伏見まで、京の町を縦横無尽に流れているのです。 高瀬川は三つあります。 高瀬川・東高瀬川・西高瀬川です。 しかし、五つあるという人もいます。 高瀬川・東高瀬川・西高瀬川・古高瀬川・旧高瀬川です。 高瀬川は三つか五つか? これはどちらも正解なのです。 高瀬川といえば、もちろん角倉了以が開削した運河です。 これが作られたきっかけは慶長十五年(1610)、方公寺大仏殿再興の巨材運搬に鴨川を利用する「鴨川水道」を開いたことでした。 この水路は、伏見から三条大橋の下まで延びていました。 しかし、これは鴨川の川底を深くしたもので、上流から土砂がたまるなどして限界がありました。 そこで、鴨川に平行して別の運河を切り開いたのが高瀬川なのです。 木屋町二条から東九条まで延びて鴨川に合流し、さらに鴨川を横断して竹田を通って伏見で淀川につながります。 これにより、大阪と京の舟運がつながったのです。
さて、西高瀬川のほうは、桂川から京の市中へ材木や農産物を運び入れ、下流部は鴨川から伏見へ届く、大きな役割を果たした運河でした。 これは角倉了以が鴨川以前に大堰川を開削し、丹波山中と京をつないだその流れの延長線上です。 西高瀬川は幕末の文久三年(1863)、嵯峨から現在の南太秦小学校近くを通って四条通り沿いを流れ、天神川にそそぐように開削されました。 しかし、それから七年後の明治三年、流路を北よりの三条通りに変更しました。 そこで、三条通りを流れる新しい西高瀬川に対し、元の流路を古高瀬川と呼ぶようになったのです。 千本三条から四条間に材木商が軒を並べたのは、この西高瀬川開削によるものです。
そして東高瀬川。 こちらも似た運命にあります。 角倉了以が遺した高瀬川のうち、流れを鴨川の西沿いから東沿いに変える中流域以降を東高瀬川といいます。 この終着点に近い伏見の流路が、昭和初期西側に付け替えられました。 これによって、新しい流れを東高瀬川(当初は新高瀬川と呼ばれていました)、そして役目を終えた元の流れを旧高瀬川と呼ぶようになったのです。  いずれの高瀬川も、その昔の舟運という大役を無事務め上げて、今は静かに余生を送っています。
石屋のないしょ話でした・・・。