石屋のないしょ話 vol.154

京都市の北区紫野、大徳寺の南西にある標高112メートルの小高い丘が船岡山です。山裾から山頂までわずか5分ほどで登ることができ、山頂には織田信長を祀る建勲神社があります。 山頂からは京都の町並みが一望でき、五山の送り火のときは「左大文字」の送り火が間近に見える絶好の観賞スポットです。今月は「船岡山」についてお話しします。

優雅な山容が舟形に似ていることから、古来「船岡山」と名付けられました。 平安朝では王侯貴族の散策の地として愛され、若菜摘みや蕨取りを楽しむ光景は、和歌にも多く詠まれています。 清少納言も『枕草子』に「岡は思いつく中で船岡山が一番いい」と称えています。 また、平安朝では都の中心を走る朱雀大路の北の基点とされました。 朱雀大路は、南の羅生門から北の船岡山までを結んだ通りでした。

桓武天皇は平安京を風水思想によって造営しましたが、その四神相応の法則によると、東に青龍、南に朱雀、西に白虎、北に玄武の聖歌がいて四方向を守るといわれています。 青龍は川、朱雀は湖、白虎は道、玄武は山に対応します。 北を守る玄武を船岡山に見立てたのです。 玄武は亀と蛇が合体した聖獣で、北の山に生息すると言われています。 

船岡山は、古代では神が宿る山で、邪気から都を守る魔物封じの霊山として崇められていました。 その証拠に、今でも山頂には古代の祭祀遺跡である巨石の磐座が残されています。 この磐座で、古代の人々は神を祀り、神のお告げを聞いたのです。 

霊山として崇められた船岡山でしたが、平安期も後半になると、山の麓は蓮台野という葬送の場所となり、平安京の人々の死体がこの地に捨てられ野ざらしにされる場所と化したのです。 さらには、保元の乱(1156年)では、源為義、頼仲父子らが斬首された処刑場となったのです。 中世には応仁の乱(1467〜77年)で西軍の砦が築かれ、戦乱の舞台となって多くの戦死者の屍がここに積み上げられたのです。  

そのため、怨霊が彷徨う山として忌避されるようになりました。 桓武天皇がつくった平安京の来たの基点が、平安京を焼き尽くした応仁の乱の基点となったのは、何かの因縁であるのかもしれません。 

現在も山上はひっそりと静まり、建勲神社の境内も、緑が生い茂る山道もどこか幽玄な雰囲気が満ちています。
石屋のないしょ話でした・・・。