石屋のないしょ話 vol.170

神社、大社、天満宮、稲荷、八幡宮、神宮・・・・神社の名前は、どうしてこうもまぎらわしいのでしょうか? 今月は明治初めの宗教大改革で、神仏分離が京都でどう行われたかについてお話します。

慶応四年(1868)三月、神仏分離令が出されると、その一週間後には「別当、社僧などは還俗してから神主、社人と名称を改め、神道で神社に勤めること。 もし還俗を得心しない者は立ち退くよう」布達がありました。 社僧とは、神社に仕える僧のことです。 神仏分離令から百年以上たった今、私たちは神仏分離以前を想像しづらいですが、日本は古来から神仏習合の思想でした。 お寺に鎮守社を祀り、神社には仏像を安置し、境内には仏塔が立ち並ぶなど、そうした光景が常識だったのです。

この大布告を受けて、宗教都市・京都では数多くの呼称変更、堂舎、仏像仏具などの撤去が行われました。 古くよりなじみ深い呼び名が突然にして変わるのですから、庶民からは反発の声が上がったといわれています。

岩清水八幡宮の「八幡大菩薩」は「八幡大神」と改めました。 諸坊は壊され、社僧はすべて還俗し俗名となりました。 

北野天満宮は「北野神社」と改めました。 社僧は還俗して神官となり、本殿にあった仏像は他寺院に移されました。 境内の毘沙門堂、多宝塔、鐘楼などが撤去されました。

祇園さんこと祇園感神院は「八坂神社」と改名し、牛頭天王の神号を廃止しました。 大鳥居に掲げられていた「感神院」の額もはずされました。

愛宕山では「愛宕大権現」を「愛宕神社」に改名しました。 境内の寺は撤去され、本地仏の将軍地蔵は西山の金蔵寺に移されました。

山伏たちの修験道は、神仏習合そのものとして廃止令が出され、天台あるいは真言両宗に帰入するよう命じられました。 こうして神社からの仏の部分が切り離されたのが、明治初めの神仏分離でした。 北野天満宮は「北野神社」となり、祇園感神院は「八坂神社」と呼び方を変えました。 この時点では、大社といえば出雲大社、神宮といえば伊勢神宮でした。 こういう時代が明治、大正、昭和の戦前まで続きましたが、敗戦を契機に再び大変革がありました。 すなわち「北野神社」は北野天満宮という昔の名前に戻ったというわけです。

石屋のないしょ話でした・・・。