石屋のないしょ話 vol.42

最近は「しきたり」や「作法」など、小難しいことは敬遠されがちですが、今月は「しきたり」と「さほう」についてお話します。
「しきたり」と「作法」とは、よく似たことで同じものだと思われている方も多いでしょうが、この二つには微妙なニュアンスの違いがあるのです。 「しきたり」とは、こういう時にはこの水引を使用するといったことで、「作法」とは、そのものをどのように表現するかということなのです。 
具体的にお話すると、例えば人様にお礼をする場合、赤白の水引のかかったもので熨斗のついたお金包み(金封)に“御礼”と書くというところまでが「しきたり」なのです。 それを“御礼”と書くか“御禮”と書くかといったところから、「作法」の域に入ってくるのです。 “礼”を“禮”と書くと画数が増し、ほんのわずかですがそれを書いてる時間が長くなります。 同様に筆ペンよりは墨をするほうが時間がかかります。 それは、その人が先様のことを意識の中に強くえがいているというこであり、その思いが先様にも通ずるのです。 “御礼”よりも“御禮”、“御仏前”より“御佛前”と書くのが「作法」なのです。 「作法」とは、些細なことにまで神経を配り、先様への思いを表現することなのです。
殊に、結納の儀式はとかく難しいと言われていますが、おさめたりおさめ返したりといった煩雑なことをするからこそ、その間に相手を理解し交流を深めることができるのです。 また、京都ではこの結納の時に家族書と親族書を添えますが、お互いに添えるという「しきたり」が確立していれば、わざわざ相手に確認する必要もありません。 ところが、それが他の地方では、家族書・親族書は重要視しないという言い方をするために、添える人や添えない人があり、かえってどうすればよいのか解らなくなってしまうのです。 先様に対する気配りや、先様を思いやる心を大切にするならば、「しきたり」や「作法」が京都のようにしっかりと確立されているほうが良いと言えるのではないでしょうか?  
一見、「しきたり」にしばられ、「作法」が難しく、京都は暮らしにくいと思われるかもしれませんが、数多くの「しきたり」や「作法」があるおかげで、事を潤滑に運んでいける最良の方法が見つかるのです。 これほど楽なことはありません。 言い換えれば、複雑に難しくすることによって、その手順が簡単により解り易いものになるのです。 今後、この京都の「しきたり」や「作法」がどのような形に変化するかは解りませんが、複雑になればなるほど容易くなると思いますし、簡素化されればされるほどその方法に戸惑うことが多くなることでしょう。
石屋のないしょ話でした・・・。