石屋のないしょ話 vol.51

皆さんの中には、「しきたり」とか「お作法」という言葉を聞いただけで拒否される方もいらっしゃるかもしれません。 また、虚礼廃止という名のもとに、全てを簡素化しようとする考え方もあるでしょう。 しかし、「しきたり」とか「お作法」というものは、決して虚礼ではありませんし、前近代的なものの考え方でもありません。 人と人とが暮らしていくための潤滑油のような役目があるのです。 今月は、「しきたり」や「お作法」を通じて人とのつながりを大事にすることについてお話します。
「しきたり」や「お作法」は、自分が恥をかかないためにあることは言うまでもありませんが、それ以上に相手の心を思いやる大切さ、相手に無礼・失礼にならないために、また相手に恥をかかせないために存在しているのです。 この儀式のこの時には、このように事を運ぶといった、完成された「しきたり」と「お作法」、それを現代的に勝手な解釈をしてアレンジしてしまっては、かえって話が難しい方向へと発展し、ひいては相手まで混乱させてしまう結果になるのではないでしょうか? 古来より受け継がれてきたその本当の意味と意義を十分に理解し、大事にすることが、人と人とのつながりをより一層強いものに高めていくのです。 
しかし、人とのふれあいといっても京都のそれはべったりとしたお付き合いではなく、自分を少し引いたところで相手を立てるところが他所とは異なるのです。 一般的にイメージされるものより、京都の「しきたり」と「お作法」は現代的なものなのです。 ですから、京都には風習・風俗・民族といった言葉がなぜか当てはまらないように思われます。 いくら親しくなっても、他所でみられるような奥座敷まで上がりこむといったものが京都にはありません。 自分の領域をきっちりと守りながらお付き合いしているのです。 『京都人のお付き合いは敷居の上』と言われていますが、まったくそのとおりだと思います。 敷居の中に入れば厚かましくなり、外に出ていると水くさい人になります。 お付き合いはちょうど敷居の上(本当は敷居を踏んではいけないので、例えです)ぐらいの、入るでもなし、出るでもないといったところがよく、これが京都流であり世界に誇る都の感性だと思います。
石屋のないしょ話でした・・・。