仏事Q&A
其の四十七


Q. 仏と菩薩とはどう違うのですか?

A. 一般的にお堂に安置されているお像を「仏様」とよんでいるようですが、厳密にいうと間違っています。 仏様とお呼びするのは、悟りをひらかれた「○○仏」あるいは「○○如来」といわれる方で、「釈迦牟尼仏」「阿弥陀如来」「大日如来」「薬師如来」「毘盧舎那仏」などです。 菩薩とは、悟りを求め続けている人という意味です。 ですから仏様の一歩手前にいる人ということになります。 はじめは悟りを得るために前世で修行をしていた修行時代のお釈迦様に対して使われていましたが、大乗仏教のなってくると菩薩の言葉の意味とおり、つねに仏の道を求めて修行している(上求菩提)と同時に、周りの人々が幸せになれるようにと願って生きている人(下化衆生)を「善薩」とよぶようになりました。 そしてさらに「これ大菩薩であって、悟りを成就して、仏となるも、衆生を導くために自ら願って人間として生まれ、ひろく教えを説く」と「法華経」の中には菩薩としての積極的な生き方がとかれています。
菩薩は本当は仏様なのですが、みんな仏様ばかりだと、あまりに尊くて近くに寄れない人がでてくる。 そういう人たちの為に仏にはならず、われわれ人間と同じような姿となって、われわれの前にあらわれて仏の道に導くのだと説かれています。 ですから、菩薩というのは特別なお姿をしているのではなく、私たちのまわりにいて、私たちに人間の生き方・人間の素晴らしさ・人生のあり方を教えてくれる人が菩薩です。 つまり、皆さんのまわりにいる人たちが菩薩なのです。 
また、菩薩はいつも優しい言葉をかけてくれるとはかぎりません。 嫌な言葉をいうときもあります。 憎まれ口をきき、叱言をいったりもします。 また、嫌な相手となってあらわれる時もあり、皆さんを悩ませたり悲しませたりする菩薩もあります。 観音様は「世の音を観る」と書くように、私たちの声を聞いて導いて下さるのですが、私たちの願いを聞いて下さる「心」と同時に、願いをかなえて下さらない「慈悲」の心もあります。 「法華経」の観世音菩薩普門品で、観世音菩薩が三十三のお姿となって私たちを導いて下さると説いているのはそのことです。 
あらゆる方法で、一人ももれることなく救うために千本の御手を持った千手観音は、私たちを温かくしっかりと抱きとめる手とともに、甘え心を打ち据える剣も持っておられます。 人々の心の中に善・悪さまざまな心があるのを示して、ある時は瞋り、ある時は慈しみ、ある時は突き飛ばしたりして、我々を導く十一面観音。 魚をとる投網のように、もれなく人々を救う網を持った「不空剣羂観音」、激しい怒りの表情をしている「馬頭観音」、いずれも観音様の慈悲の心をそれぞれにあらわしているのです。 それは菩薩の心でもあり、仏様の心でもあるのです。 ですから、お像の姿からいえば仏様と菩薩とは区別すべきですが、その心は仏様も菩薩も同じです。 そして皆さんもその菩薩の一人なのです。
ご参考までに・・・。