仏事Q&A
其の六十八


Q. 「仏の顔も三度まで」とは、どういう意味ですか?

A. 仏様のような温厚な人であっても、顔を逆なでするような無法なことを三度もされると、ついには腹を立てるという意味に使われていますが、この言葉の出典はお釈迦様の晩年に起こった悲しい話から出ています。 お釈迦様がおられたカピラ城の隣にコーサラ国という強大な国がありました。 この国王パセーナディが妃を釈迦族から迎えたいと思って、使者をカピラ城に出しました。 使者の口上の中にあった「もし不承知ならば力ずくでも」という一言に、釈迦族は憤慨しましたが、コーサラ国はとても相手にできる国ではないので、ある長者が下女に産ませた娘を長者の娘としてパセーナディ王に嫁がせました。 妃は、王子ビドゥーダバを産みました。 王子が八歳になった時、弓術を学ぶためにカピラ城に留学させられました。 新しくできた講堂でビドゥーダバが修行をしているのを見て、釈迦族の人々は「下女の子をなぜここに入れたのか」と言って、王子の帰国後、彼のいた場所の床を削り、その下の土を七尺も掘って清浄な土と入れ換えました。 
このことを聞いたビドゥーダバは身を震わせて怒り、お付きのバラモンに「もし自分が王位についたら『釈迦族に辱められたことを思い出せ』と一日に一回必ず私に言い聞かせよ」と命じました。 父王パセーナディが死んで、王子が王位を継いだ時、バラモンは命令どおり実行しました。 
ビドゥーダバ王は、軍を率いてカピラ城へと向かいました。 これを聞かれたお釈迦様は、やがてカピラ城へ通ずる街道にある一本の枯れたチークの木の下で端座されました。 その前を通りかかった王は、お釈迦様を礼拝してから「ほかに繁った木があるのになぜ枯れた木の下にお座りですか?」とお尋ねすると、「王よ、親族の蔭は涼しいものだ」というお答えでした。(チーク樹は釈迦族発祥に関係していて、いわゆる親族の象徴的なもの) 王はお釈迦様が釈迦族出身であることと、「遠征のとき沙門に会ったなら兵を返せ」という言い伝えを思い出して、その場から兵を引き揚げさせました。 しかし、王はまもなくかつてのことを思い出し、耐え切れなくなり兵を出しました。 すると、またお釈迦様が枯木の下で座っておられたので、王はまた兵を返しました。 同じことが三度あったのですが、四度目にはお釈迦様の姿は見えませんでした。 お弟子の目連が神通力でカピラ城を救おうとしたのですが、「釈迦族の積んだ業の報いは、自ら受けるより仕方がない」とお釈迦様はおとどめになりました。 お釈迦様は三度目まではかつての故郷、親族の人々の為に滅亡から救おうと努力されたのですが、四度目には因果応報の理にまかせられたのです。 この為、釈迦族はビドゥーダバ王の為に滅亡しましたが、王もまた帰国後、舟遊びの時に突風が起こって兵と共に水没したということです。 これは『増一阿含経』二六・「瑠璃王経」に出てくる話ですが、悲しい話の中にも、人としてのお釈迦様の情を偲ばせる一面があるように思います。
ご参考までに・・・。