石屋のないしょ話 vol.140

鴨川を散歩するのに、気持ちの良い季節になってきました。 今月は鴨川畔に日本で最初の西洋牧場があったことについてお話します。  
「少年よ大志を抱け」とクラーク博士が札幌農業学校を開いたのは明治九年(1876)のことです。 ところがそれよりも早く、京都市内に西洋風の牧場があったのです。 一面白いダッチ・クローバーに覆われた牧場に、羊や牛がのんびりと草を食む光景が広がっていたのです。 舞台は明治五年(1872)。 当時の知事は勧業政策の一つとして、日本のさきがけとなる京都牧畜場を作りました。 場所は荒神橋を渡った鴨川の東岸、吉田下阿達町から聖護院河原町の旧練兵場敷地です。 もとは聖護院領で、聖護院の森が広がっていました。 現在では京大病院が広い敷地を持つあたりです 。
米国から羊や牛を買い入れて、ドイツ人ションソンやアメリカ人農牧師ウィードを招聘し、近代的牧畜の振興をはかりました。 牛乳の効能を宣伝しながら、搾りたての牛乳を一合五銭で販売し、バター、練乳、粉乳の製造を手がけました。 また、羊の毛を刈り取って、希望者に販売もしていました。 ちなみにこの時、牧畜場から京都市内・五条通り以南の牛乳配達人を命じられたのが松原栄太郎。 のちに御所御用達の「京の牛乳」として知られた松原牛乳の発祥でした。 

やがて、牛や豚の飼育が進み始めると、明治九年には京都府船井郡須知村蒲生野に分場を開設しました。 クラーク博士の札幌農学校と時を同じくして、ウィード教授による京都府農牧学校が誕生したのです。 北の大地ばかりではない、ここ京都の「黒ぼく(農耕に適した腐植土質の土地)の大地」にも、大志を抱いた青年が各地から集まってきたのです。 授業はアメリカの教科書、農具を用いて、すべて英語で行われたそうです。 しかし、ウィード教授の任期満了と共に、この農牧学校はわずか三年で、明治十二年廃校となり、続いて市内、鴨川東岸の牧畜場も明治十三年(1880)民間に引き下げられてしまいました。 当時の関係者は、同志社英学校を創設した新島襄を介し、札幌より帰米したクラーク博士に依頼してウィード教授の後任を求め存続を図ろうとしたものの、実現はしなかったようです。 京都府農牧学校は、駒場農学校(現・東京大学農学部)、札幌農学校(現・北海道大学農学部)とともに、日本三大農業教育発祥の地であっただけに、もしその後存在していれば、大学にもなりえた学校でした。 その跡を示す記念碑はいま、京都府須知高校正門前手前、左側の小さな池畔に「黒ぼくの大地を拓いた人々」という碑文が刻まれて建っています。 鴨川の東岸では、京大東南アジア研究センターの前庭に「明治天皇行幸所牧畜場跡」(明治十年二月一日)の碑があります。 かつて「おらんだ・げんげ」と呼ばれて、この一帯に白い花を咲かせたダッチ・クローバーは、わが国で初めて輸入され、植えられたものです。 荒神橋から丸太町橋あたり、鴨川東岸河原でクローバーを探してみてください。 もし見つかったら、それは明治の香りを伝える「おらんだ・げんげ」の子孫かもしれません。
石屋のないしょ話でした・・・。